2016年2月20日土曜日

JR北海道は全路線が赤字、日高線復旧をどう考えるか?(2)

先日2月16日に夕張市で開催された「最果ての鉄路に未来はあるか -日高線の事例に学ぶ"夕張線"の存続問題-」勉強会に伺ってきました。

通称夕張線は、昨年10月に清水沢駅が無人化、今春から本数が約半分に減便と存続が危機的な状況を迎えています。
今回は、日高線について言及した投稿をご覧になった清水沢プロジェクト代表の佐藤真奈美さんから「話題提供として日高線の状況を話してほしい」と依頼されたのでした。

少人数で中身の濃い話し合いになりました

❏ 日高線の問題を分解して、整理する


私からは、日高線の情報や現在までの経緯を簡単にご説明し、JR北海道は新幹線や札幌近郊を含む全路線が赤字である事実を指摘し、「赤字だから廃止」とはならない点を強調しました。
鉄道には公共性があり、公的負担も必要です。
ここまでは前回の投稿までで調べたことです。

今回はさらに考えを進め、鉄道が公共財として機能する役割を「地域公共交通」と「観光・広域利用」のふたつにわけて、「JR日高線問題」を浦河の視点であらためて整理しました。
そして、特に後者の観光・広域利用の視点から必要性を考えてみました。

❏ 空港からの移動手段としての日高線


現在、北海道外から浦河へのアクセスは、新千歳空港を利用していらっしゃるのが一番便利です。

ところが、直接空港から浦河へ走るバスは一日1本だけであり、現実的な移動手段ではありません。
自分で運転しない限り、反対方向である札幌へ一度出てからバスで来ることになります。
乗り継ぎを考えると5時間くらいはみたほうがよいでしょう。

しかし、JRであれば2回の乗り継ぎが発生するものの一日5本程度が確保され、時間も4時間ほどみていただければ充分かと思います。
商用、観光どちらの側面からも必須な交通手段ではないでしょうか。

❏ これからの北海道に必要不可欠では


外国人観光客が急増する北海道ですが、道南や道央に集中する観光客の広域分散化を進め、その観光振興の目的のひとつとして地域交通の確保と言明しているのです。
バスの運転手不足もこれだけ深刻化している中で、北海道全域に渡る網羅的な鉄路を確保するどころか縮小とは理解に苦しみます。
言葉だけのポーズでしょうか。

また、浦河町は来年度の観光振興のための新組織発足を予定しており、積極的に観光行政を進める考えです。日高管内でもHIDAKAおもてなし部会の積極的な取り組みをはじめ、民間での動きも活発になってきています。
こうした現状にも関わらず復旧に対して二の足を踏んでいるJR北海道に対して、国や道も公的負担はもちろん積極的な指導をしていくべきでしょう。

❏ 「理由なく反対でもいいんだ」


ところが実を言うと、当日の私の語り口はそれほど強気なものではありませんでした。
どちらかと言えば、「廃止やむなし」「興味がない」との声が多く、関心をもっていただくこと自体が難しい問題です。
しかし、夕張でみなさんとお話させていただく中で勇気づけられたのでした。

「日高線は何回か乗ったけど素晴らしい景色。全駅で降りてみたいよね」
「29駅というのはすごい。これらの駅だけでも財産」

そんな感想をいただける路線をもっていることを、もっと誇りに思ってもよいのではないでしょうか。
他にも様々語られたのですが、結局のところ私としてはどのように説得力をもって必要性を訴えていけばよいのかという視点からみなさんの意見を捉えていました。
しかし、今回はまったく違う大切な視点をいただいたように思います。

「相手と同じ土俵で議論なんかしなくてもいいんだ。理由なく、乗らなくても反対でもいい」

そう言い切ってしまえることに凄みを感じました。
国が必要だからとひいたもの、それが夕張ではひとつの文化になっていました。

「赤字、黒字というたかが一民間企業の経営状況だけで議論できるものではないんだよね」
そう一蹴できる強さに素直に感動しました。

言葉にするとそれだけで、正直言ってうまく伝わるか自信がないのですが、これからの世代が過去から受け継ぐべきものとは何なのかあらためて考えさせられました。
そこには言葉にはなりづらい、しかし大切な何かがありました。

❏ 言葉になりづらい、大切な何か


そこで思い出したのが、少し前にネット上で話題になった白滝駅のことでした。
女子高生がひとり利用しているので存続させた美談として紹介されていました。
そこに知人のさのかずやさんが言及していました。

「ひとりの女子高生のために駅が存続する」という話は「美談」なんかじゃない


美談として紹介されたこの一件に対する違和感が語られているのですが、鉄道に限らず、田舎の何かを説明しようとするときに感じるもどかしさ、言語化しづらいものがあります。
ちなみに日高線ではひとりどころか数百人単位で困っています。

都市のひとにとっては田舎は代替可能なものです。
どこかの田舎がダメになったら別の田舎があります。
その田舎の食や自然、景色だって他の田舎で満足されてしまいます。
話題として消費したらそれでおしまいです。
残酷な現実ですが、衰退してもどうでもいいものなのです。

ではどうでもよくないと言えるのは誰かといえば、住人や出身者くらいで、少数者です。
その大切さを訴えるときに、なぜ大切なのかを相手の文脈で語ることは難しい。
何か相手に対してそこにしかない価値をつくりだしたり、提供したりできればよいのですが、そうではないときにどう訴えればいいのか。

ちょっと話はそれてしまったかもしれませんが、そんなとき「理由なく反対でいいんだ」と言える勇気は大事になってくるのではないかと思いました。
これは精神論やノスタルジーという言葉で片付けられない、人間の尊厳にかかわる問題ではないでしょうか。

知った顔で「しょうがない」と諦めるのは簡単ですが、田舎であればあるほど理由なく闘う強さが求められるのではないか。
そしてそれは田舎に限らず今の言葉の使われ方の中でもっとも不足しているものではないか。そんなことを思いました。

❏ 当日の詳細はこちら


もう少し当日の内容について書くつもりだったのですが、ちょっと違う内容になってしまいました。
最後になりますが、当日会場で語られた内容は清水沢プロジェクトのウェブサイトで詳しく報告されていますので、よろしければご覧ください。


また、私の発表内容はこちらのスライドをご覧ください。